私的なトウキョウ・ミルキーウェイの話

インタビュアー:ひななっちゃん☆
語り手:ふかぴょん
080418すこっと.jpgトウキョウ・ミルキーウェイは、じつは、深瀬鋭一郎が2001年におたふくかぜになったことから始まります。大人がおたふくかぜになると大変なのです。40度の熱が9日間続きました。そのあいだ、ただテレビを見ながら寝ていました。ある日、突然番組がワールドトレードセンターの映像に切り替わりました。ビルから煙が上がっていました。目の前で二機目が別のビルに突入しました。


治ってから勤務先に出社したら、役員に呼ばれてニューヨークの状況調査を命じられました。病気のため余っていた職員にちょうど良い、ということでしょうか。すぐには渡米はできなかったのですが、現地が落ち着いてきてからワールドトレードセンター跡地に行って調査をしました。FBIや州兵がうようよしていて、ニューヨークの友
人も泣き崩れて、ショックを受けました。ニューヨーク証券取引所での会議に向かったら、装甲車の大砲がこちらを向いていました。ここで万が一転んだりしたら射殺されるだろうな、と思いました。
wtcsite.jpgそれからずっと、政府金融部門の災害対策の責任者を命じられ、多くの国際会議に出ました。2004年はひどい年で、世界中で大雨・洪水が相次ぎ、地球温暖化が原因だとささやかれました。そこで思ったのです。世界や政府がいくら対策を講じても、憎しみの連鎖がある限り、地上から戦争やテロはなく ならない、地球温暖化が進んでいけば、気象災害はどんどん大型化して頻発して、どんなに僕らががんばっても、対策は後手に回るばかりになってしまう。
政府部門の一員として自分はとても非力でした。そこで思ったのが、市民として活動しなければ、この状況は改善しないのではないか、ということ。どうせ同じ非力なら、自分はキュレーターとして芸術支援団体の代表として、芸術活動をしているじゃないか。芸術のほうが人の心に訴えて動かす力があるだけ、公共政策よりも早くかつ大きな動きができるのじゃないか、と思いました。
2005年に「芸術で地球を救う」を発想したのは、そういうことでした。2005年10月から2006年2月にかけてメンバーが集まり、深瀬鋭一郎を会長として「芸術で地球を救う会」が設立されました。2006年6月には「深瀬記念視覚芸術保存基金」と「芸術で地球を救う会」の事務所をあいのりで銀座に設置することになり、初夏の銀座、新富、八丁堀、築地、明石町、新川を、夜遅くまで不動産物件の下見に走り回りました。
7pm.jpgそこで気がついたのが、銀座の電気の無駄遣い。「なんでこんなに遅くまで、店がしまった後までネオンを煌々と灯しているのだろう?」24時はまだキラキラ。深夜4時でもまだかなりついていました。「これじゃあ、銀座で天の川はみえないな」と思いました。それどころか、1等星や惑星以外、ほとんど星がみえないのです。これから環境をよくし、皆がしあわせにくらせる社会にするためには、「ファスト・ライフの象徴であるエネルギー多消費の、この銀座から変えなくてはならない」と考えました。逆に言えば、銀座で天の川を見られるようになったとき、本当に環境が改善したといえるのじゃないか。
こうして、2006年に、現在の「トウキョウ・ミルキーウェイ」の前身となる企画「GINZAで銀河をみる」が生まれました。それはMixi上で銀座にあるK's Galleryのオーナー増田きよみさんと意気投合したことから生まれたのです。赤坂なども銀座ほどではないにしろ相当ネオンが目に付くので、次の年には、東京の盛り場を対象に「盛り場でも銀河を見えるようにして、東京で銀河を見よう!」とよびかけて「トウキョウ・ミルキーウェイ」に拡大しました。
4am.jpgこうして、おたふくかぜから7年経って、今のトウキョウ・ミルキーウェイがあります。100万人のキャンドルナイトの声がけ人代表 辻信一さんや、コピーライターのマエキタミヤコさん、3年間コーディネーターを務めてくれている吉田有希さんたちとの出会いは、その中のエピソードのひとつといえるでしょう。最大の功労者として、僕や皆を、2005年10月から2006年6月までグングン引っ張って行ってくれた、新聞記者だったK君には病気がありました。そのため彼が途中で引きこもってしまい、今は参加していないのが、とても残念です。